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上野のれん会発行「うえの」に神経科土田病院の記事が掲載されました。
2013年12月号「うえの」に遠藤眞実先生の記事が掲載されましたので、ご紹介いたします。
上野桜本で百年―神経科土田病院の歩み
遠藤眞実
今夏、上野のれん会に加盟したご縁で、当院神経科土田病院の百年に亘る歴史について、筆を取りました。私はこの病院の五代目の院長です。
さて、百年前と言えば超高齢の方以外は、まだ誰もこの世に生まれていない訳です。そこで現在から十年ごとに時代を遡ると想像してみて下さい。これを十回繰り返すと現在皆さまが見慣れている建物や風景街並みが次々と走馬灯のように消えていき、百年前のそれになり、そこに創設期の土田病院が現れます。現在の街並みはなく確実に変わらぬ姿であるのは寛永寺くらいで、神経科の病院の立地にふさわしい閑静な佇まいだったことが病院の案内書にも書かれています。
明治40年建築の本院

明治43年6月5日 東京朝日新聞に掲載された病院新設の新聞広告
初代院長創設者の土田卯三郎先生がドイツ留学から帰国後、現在の地に「土田脳脊髄病院」を創設しました。時に明治四十二年(1909)のことです。
開院当時の治療室(上) 待合室・治療物理室・廊下(下左より)

当時の「土田脳脊髄病院案内書」には、「本院は東京市下谷区上野桜木町一八番地に在って、音楽学校(現東京芸大)を隣りにし、上野公園の社を背に、交通の便と周囲の閑静さを兼ね備えて居ります」と紹介されています。この住所表記のとおり、東京はまだ「市」で「都」になっていません。区も台東区ではなく、下谷区です。「交通の便」とありますが、病院の創立と同じ年に山手線が開通しています。勿論当時は国鉄で山手線初乗りの運賃が何と五銭です。因みに1909年の物価では、自米10kgが八十七銭、牛肉100gが十銭で、単位はどれも「銭」であり、現在の金銭感覚から思えば夢のように遠い昔です。

昭和10年に作成された「土田脳脊髄病院案内書」 大正13年建築の本院

土田脳脊髄病院創立は、都立松沢病院より十年前で、脳脊髄科を標榜としては日本で最初とされています。開院当時の規模は、三階建て洋館、収容人員八十有余。清水組が近代建築の粋をとって設計したものです。大正十二年には、三階建て五十四坪を増築して、病棟三階建て百十坪、付属建物六十坪、総坪数五百七十余坪となり、発展します。
現代は脳科学時代と言われ、「脳と行動」は最先端の領域として認識されるようになりました。ある意味で土田脳脊髄病院は、時代を先取りしていたような感があります。
のちに昭和二十八年(1953)、病院名は神経科土田病院に改称されますが、この「神経科」の名称にこそ土田病院の伝統が込められているのです。
昭和七年(1932)初代院長逝去(在任1909~1932)、土田誠一先生が二代目院長に就任、この間昭和九年本院の竣工、昭和十年に埼玉分院設立など、 一代目・二代目の時代約四十五年のあいだ発展を続けました。
昭和十八年(1943)二代目土田誠一院長逝去(在任1932~1943)、この後、縁あって私の祖父遠藤義雄が三代日として土田の名前をそのまま残し後を継ぐことになります。時に昭和二十年(1945)一月のことでした。二月十日東京大空襲、八月六日広島に、八月九日長崎に原爆投下、そして八月十五日終戦を迎えました。土田家から病院を継承し、護り続ける心労は筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。後年祖父は回顧録の中で「継承すると間もなく空襲が激しく病院を護ることが苦しかった。早く焼けてしまえば良いと思ったことが幾度もあった。しかし、今になると焼けないでよかったと思う」と書いています。また回顧録の最後では「もっと住みよい平和な日本国を見て生を終わりたいと希っている」という言葉を私たちに遺し、戦火から病院を護り抜き、五十三歳の若さで急逝したのでした(在任1945~1953)。
この後、長男で私の父遠藤俊一が四代目院長に就任しました。病院も現在の形の医療法人財団神経科土田病院として発足することになります。臨床脳波の専門家であった父は、在任期間が五十九年(在任1953~2012)と一番長く、昭和六十年(1985)鉄筋五階建新築工事竣工、病床八十八床の都市型精神病院として、外来・検査機能の一層の充実を図り、平成元年(1989)、頭部CTを全身CTへ切り替えて、現在の神経科土田病院の基礎を完成させました。
土田病院創立百周年の記念パーテイ(2009)ではまだまだ元気で、生涯現役が信念の父でしたが、最後は酸素吸入を受けながら患者さんの診療にあたり、院長室から救急車で運ばれて不帰の人となりました。平成二十四年(2012)、六月十日享年八十六歳でした。
その後を継いで、 一人っ子で副院長の私が五代目の院長になりました。院長としてはまだ歩き始めたばかりですが、神経科土田病院の伝統である「地域のための医療」を信念に誠実な努力を続けていく所存です。当院が皆様の健康をお守りする病院としてお役に立てればと思っております。
鴬谷駅北口より寛永寺橋を渡った左、宝暦十三年建立のお地蔵様三体の前を過ぎて、その先の寛永寺裏門を左手に見て進むと、歴史の歩みと共に神経科土田病院が見えて参ります。
(えんどう まみ・神経科土田病院院長)
精神医学4月号 巻頭言 風祭先生が書かれていらっしゃいます。
巻頭言 新設大学医学部精神医学教室の40年
精神医学 56巻・4号 2014年4月 医学書院
風祭 元
わが国では、1970年代に33校の医学部・医科大学が新設された。私はその一つである帝京大学医学部の初代の精神科主任教授・科長となり、精神医学教室と医学部附属病院精神科の開設に携わった。帝京大学医学部は既存の医療施設がなく、まったくゼロからの出発であったので開設の苦労も多かった。当時新設された医学部・医学大学は、医療技術の発展や医療需要の増加による医師不足に対応して1県1医大の構想の下につくられ、それまで医学部のなかった地方に17校の国立大学と、都市部を中心に16校の私立大学の医学部が新設された。それからおよそ40年が経過した現在、これらの新設大学に在籍し、研修を受けた精神科医たちはどのような状況にあるだろうか。帝京大学の医学部精神科について現況を検討してみた。
戦前の1935年(昭和10年)頃には、わが国の医師養成施設としては帝国大学医学部が9校(台湾、朝鮮半島を含む)、国公立の単科医科大学が7校、それに私立大学の医学部と医学専門学校とがl0校の合計26校あり、卒業すれば医師免許を得ることができた。その後日中戦争と太平洋戦争の期間に、主に軍医不足に対応するために、帝国大学医学部や一部の医科大学に附属医学専門部が新たに設けられ、多くの医学専門学校が新設された。
1945年の太平洋戦争の敗戦によって、医学部に付設されていた医学専門部や外地にあった医学専門学校は廃止されることになるが、戦後の学制改革によって、医学専門学校の多くは大学医学部に昇格し、新たにインターン制度や医師国家試験制度が導入された。戦後10年経った1955年(昭和30年)頃には、全国の医師養成大学は47校、一学年の卒業生は約3、000名となっていた。
しばらくはこの状態が続いていたが、それから約20年が経過して、医学技術の著しい進展などのために医師不足が顕在化してきた。また当時の医学部の卒後教育の不備が大きな問題となり、全国の大学紛争のきっかけになったという事情もあって、1970年(昭和40年)から約10年の間に、新しく33校の医学部・医科大学が設立され、医学部・医科大学は全国で合計80校になった。卒業生は1年におよそ8、000名(後に定員が増加されて現在は約9,000名)となった。
帝京大学医学部精神科にこれまで在籍して勤務・研修した医師は私まで含めて合計約160名いるが、のうち3名が死亡し、3名は外国に居住し、16名が大学から連絡が取れない。数名は老齢や病気のため医師を廃業している。これらの者を除いた約140名のうち、大学の準教授以上の教職に就いた者が19名いる。これは予想よりも多い数であったが、帝京大学医学部の精神科教室創設の初期には国公立大学の卒業生が多く勤務したこと、帝京大学医学部が東京都板橋区の本院以外に、千葉県市原市と神奈川県川崎市にそれぞれ分院を設立していること、大学経営母体の帝京学園が、医療関連の学部や関連の大学(帝京科学大学や帝京平成大学など)を設立していることなどが関連しているのであろう。また、約20名が帝京大学医学部精神科に現在在籍している。
これらの数を除いた約100名の帝京大学医学部精神科に在籍した医師の現況を調査してみると、そのうち、自分で病院を経営して診療している者が12名、診療所(有床診療所を含む)を開業して診察している者が37名いる。その他の約60名余は、現在は病院または診療所の勤務医であるが、この中には将来開業する可能性のある者が少なからず含まれていると考えられる。新設の帝京大学医学部の卒業生が出たのが1977年であるので、帝京大学医学部で研修した精神科医が社会に出たのは1980年代以降である。
周知のように、わが国では、戦後の1960年代から民間立の精神科病院の開設が急増し、(1950:133病院、1960:506病院、1970:896病院)、1980年代には1、000病院を越え、精神科の病床数も35万床となり、精神科の病院数も病床数もほぼ頭打ちになった。新設医科大学の卒業生が研修を終了して社会に出た頃には、わが国の精神科病院数と精神科病床数はすでに飽和状態にあったと言える。
帝京大学精神科に在籍して研修した者のうち、新しく病院を設立した者が3名あるが、これらはそれぞれ、依存症治療病院、思春期精神科病院、脳神経外科と提携したリハビリテーション病院で従来型の精神科病院の設立はない。一方、上記の新設の3病院を除いて、現在、精神科病院の理事長・院長として経営と診療に従事している者が9名いるが、これらはいずれも父母の病院を継承した者で、それぞれが病棟を改築したり、デイケア、社会復帰施設、認知症専門病棟を新設したり、新しい工夫を加えて運営している。また、教室出身者のうちの37名が、精神科の診療所を新しく開設して診療している。その規模や形態はさまざまで、精神科・神経科・心療内科以外の診療科をも標榜している者もあるが、それぞれが地域の精神科医療の向上のために努力している。
わが国で、戦前は精神科診療所は皆無に近かった。精神病者監護法では、患者の外来通院は考えられていなかったのである。私自身は1958年に医学部を卒業したが、その時代には、精神科医の将来の選択肢に「精神科診療所の開業」はなかった。しかし、1955年頃から、向精神薬が精神科医療に導入されて、精神科・神経科を標榜する精神科医の診療所が都市部を中心に徐々に設立されるようになった。1976年に「日本精神神経科診療所協会」が発足したが、当時、精神科医の設立した診療所は全国でおよそ2,500であった。1980年頃から精神科診療所の数はさらに増加し、2011年の厚生労働省の統計では、精神科を標榜している診療所は全国で約5,700で全診療所数の5.8%に達しているという。この中にはsh会保健診療報酬請求のための9精神科標榜も含まれていると思われるが、その大部分は精神科医の開業しているクリニックであろう。現在の精神科クリニックは診療室での心療だけでなく、デイケア、集団精神療法を行ったり、社会復帰訓練施設を持つものも多くなった。
1970年代に新設された帝京大学医学部に在籍して研修した精神科医のうち、現在大学にいるものを除いた医師のおよそ8分の1が病院を経営して診療しており、また、およそ3分の1が自ら診療所を開業していることが分かった。これは我々が精神科教室を創設した時には想像しなかった数字である。この現況は、全国の精神科医の卒後研修を考える上で、一つの貴重な資料を提供していると考える。
(帝京大学名誉教授・元都立松沢病院長)
同門会員用メイリングリスト運用開始のお知らせ
精神神経科学講座では同門会会員の交流や情報共有のために、メイリングリストの運用をはじめました。
以下の要領で実施したいと思いますので、どうかよろしくおねがいいたします。会と会員の発展のために利用いただければと思っております。
池淵恵美
1. メイルアドレスを同門会に登録しておられる方について、メイリングリストに登録しています。お知らせのメイルを既に、2月10日に登録された方々に配信しております。もしメイリングリストへの参加をご希望でない方は、医局秘書 島崎 psychiat@med.tikyo-u.ac.jp までご一報ください。また登録されていない会員(メイルをお受け取りになっていない方)で、参加をご希望される方がおられるようでしたら、やはり医局までお知らせいただけるとありがたく思います。
2. 送られたメイルに返信されると、発信者(メイリングリストの管理者)のみにメイルが届きます。受け取るだけですと個人のメイルアドレスは特定されません。
3. 全員への情報はまず医局秘書に連絡いただき、そのうえでメイリングリストを通して配信したいと思います。直接の配信はできません。
4. 配信の内容は以下の通りです。配信希望のメイルがございましたら、医局秘書までお送りください。
・医局の情報 : 行事、集談会、人事異動、会員への連絡事項などのお知らせ
・会員情報交流 : 慶事、訃報、異動など
・関連病院の情報
・その他会員相互の連携に役立つ情報
*適切でないと判断した場合には、配信しないことがありますので、ご理解をお願いいたします。
5. 当然ですが、個人的な避難や情報の了解なしの提示など、社会的に不適切な返信や発信などがありました場合には、利用を中止させていた抱くことがあります。
以上
風祭先生よりお送りいただいた懐かしい写真
古いアルバムを見てみたら野球や医局旅行の写真が沢山あったのでお送りします。
昭和50年代は野球の全盛時代で、投手は池田久基、木村武登先生(写真にはないが)、捕手は利田周太先生などでした。草野球はパッテリーとサードがうまいと強いのですが、皆ドングリの背比べで弱小チームでした。野球の最後は功刀先生あたりで、その後はゴルフ、テニス時代になりました。


昭和55年頃 東大御殿下グランドにて ANGELS 左より後列 上村神一郎 淵野勝弘 池田久基 利田周太 町沢静夫 渡邊洋文 渕野和子 加藤洋子 前列 風祭元 広瀬徹也 竹村道夫 清水百合子、中野幹三 (敬称略)
昔は春・秋年2回医局旅行があり、看護婦さんなどと一緒に日曜日をつぶして出かけましたが、初めの頃の写真があったのでそれもお送りします。医療福祉相談室のケースワーカーの平岡久仁子さん(当時は独身で三浦さん)や故花田耕一先生などの顔も見えます。(昇仙峡?)

後列左より 上村神一郎 中野明徳 ○ 池田久基 ○ ○ ○ 花田耕一 風祭元 竹村道夫 2列目 ○ ○ ○ 加藤洋子 平岡久仁子 長澤美智子 ○ 渡辺洋文 前列 岡崎和也 柏田勉 広瀬徹也 斎藤高雅 中村則子 (敬称略)(○は看護師さん)
風祭 元





